思い出 4番目の彼女の優しい心遣い

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自分は今、完全な女性嫌いで 、というのは押し付けて来る人達が周りにいて、自分は押し付けられれば押し付けられるほど、拒絶反応を起こす性質なので、元からどっちかというと一人が好きだったのに、本当に話しても何も得るものがない、知識の無い、女性は嫌になってしまいました。おかげで性欲もなくなり、でもこれは時間の節約に非常に有難く、

更には、科学が一気に進み安価でサイボーグになれ食欲も無くなれば、もっと音楽制作、イラスト制作が出来るのにと、科学の進歩を願う毎日です。

思い出を歌に、イラストに変え、日記も書いているのですが、男性だけではなく、イラストには色んな色を使うように女性の思い出も書いてみようと思います。

4番目の彼女とバイクで広島県の宮島と云う世界遺産でもある場所に行った帰り、雨が降り始めました。

行く前から90%の雨予報で、私は止めとこうかと言ったのですが、
彼女曰く、”じゃ 10%を期待して ” と、
当時、自分と会うのが一週間で一番楽しいと彼女言っていました。

ちょいと不安で遊びに行ったのですが
案の定の雨、こういう時バイクはきついです。

ただとにかく広島市内に帰らなきゃならず、雨中走り始めました。

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3月ですが雨に打たれるとめっちゃ寒かったです。
走り始めた時後ろから
” 好きな果物は ? ” と聞くので 、苺 彼女好きなの知っていたので、
” イチゴ ! ” と答えると 、 ” 同なじ ! ” と叫び、
ちょっと和気あいあい気分でスタートしたのですが
しばらくすると寒さが骨まで染みてきて めっちゃきつくて
あー 来なきゃ良かったと思いながら走り続けました。。

市内近くでやっと雨が止み、交差点で信号待ちをしていました。
体も心も疲れ切りグターっとしていたのですが 、彼女これを察したのか突然

” また 、どっか遊びに行こうね ” とにこやかに後ろから言ってきました。

彼女 この雨でも元気だな、いや俺を元気づけようと明るく振舞ってるのか ?
とにかく、心がポンと軽くなり、
” うん ! ” と ヘルメットの頭突きを後ろにかましました。
彼女もコンコンとヘルメットを当てて来ます。ちょとの間信号待ちの交差点で
ゴンゴン頭突き合戦をやっていました。

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雨止んだことプラス彼女の気遣いで、その後の走りは楽でした。

自分は芸術の他、物理や政治の話が好きで女性と話して面白かった試しがありません。

アイルランドのダブリンのユースホステルに長居していた時、ある外国女性が
” あなたはおとなしい、もっと喋ったら ”と言うので まー 男性とは政治談議などよくしていたのですが、じゃーと思い、自分は今戦争経済の歌を書いてる、シリアの戦争についてどう思うと語り始めたら、この方一気に引いてしまい、行く所があると自分から話しかけてきたのに会話を打ち切ってしまいました。

他にも ” He hates women ” と噂話をされたことがあるのですが
嫌ってるのは女性じゃなく、話しても面白くない 中身空っぽの頭の中が小学生のようなアダルトチルドレンと関わるのが嫌なのですが、
まーとにかく私には特に国際標準語である英語喋らない日本女性はうるさいだけで、20代前半と違い、今は百害あって一利なしです。

しかし こういう思い出も少しなのですがあったりします。

思い出 バイト先で出会った気は優しくて力持ちな男の人

私はバイトは主に高時給につられ、学習塾講師を行っていたのですが、ロックンローラーなので

喉をあまり酷使するわけにもいかず、痛めたら辞めて、肉体労働をやって、治ったらまた塾講師をやるという事を繰り返していました。
この中に荷揚げのバイトと云うのがありました。
これは工事現場にひたすら木材や、コンクリートパネル(通称コンパネ)等をトラックから運び込んで行く仕事で、早く終われば半日で8000円位になったりする仕事で、ものは試しとやってみました。

木材を運ぶ現場だったのですが、ちょっと雨を吸ってていつもより重かったみたいです。
二人で行いもう一人の方は身長は私より低かったのですが、腕が私の2倍位太かったです。
自分は瘦せ型で腕も細く

このバイトはすべきでは無かったのですが時遅し
30から40Kgはあると思われる長い結束された木材の束を運んでいるうち、筋肉がバーンアウト、動かなくなってしまいました。
しかし2人しかいないので、休む訳にもいかず、自分がゆっくりとしか運べないので負担がもう一人の人に掛かり、申し訳ないなと思いながら、運んでました。

感覚的には腕立て200回やって、ガチガチに麻痺した腕で重い物を無理矢理運び続けるようなものです。

佐川急便の横乗りの助手や、日本通運の仕分けのバイト、荷物が重くても30kg位までなら、そこそこ動けて
” 今までで 最高の横乗りだった 。” とか ” 松田さんがいれば大丈夫だよ ” 等と言われた事もあったのですが 、重いのを連続で運び続けるこの時は完全な戦力外、

とうとう 生まれて初めて私は ロックンローラーであること忘れ喉を庇わずに運び始めました。

塾内で声を張り上げていた時、ピリッと来たら必ずボリュームを落とし、肉体労働現場でも喉痛かったら、悪いとは思ったのですが、極力喋らず作業して来たのですが、

この時だけは負担が相当もう一人の方に掛かっていたので、とにかく喉がカラカラになって、悲鳴を上げてても、運び続けました。

9時位から12時過ぎまでノンストップ、休憩は無いのか聞く訳にもいかず、終わった時は本当ホッとしました。

休憩所に行き、12時過ぎてたので、俺のせいで休憩始まりが遅くなって申し訳ないなと思いながら、ただ木材は全部降ろしたので、” この後は別の現場に移動ですか? ” と聞いたら、
 ” いや、これで全部終わりですよ。” と言われたのでびっくりしました。
というのはこの日は初日で、早く降ろせばそれだけ早く上がれるシステムとは知らず、
そうか、それで 普通は10時と3時にある 休憩無しだったのか、と納得しました。

天にも昇る気持ちとはこのこと!
午後からもきついだろうと覚悟していたのに12時過ぎで終わりとは !

喉を潤そうと500mlのジュースを飲んだのですが、なんと一気に入ってしまいました。
それでも足りずもう一本500mlを飲んだのですが、一気に1リットル飲んで平気だったのは
後にも先にもありません。それだけ体使ったのでしょう。

現場出る時、” 今日は 足引っ張てすいませんでした。 ” と詫びたのですが、

” いえいえ 、また よろしくお願いします。 ”  と 言ってくれました。

これは、とても嬉しく救われた気になりました。

私などは心が狭いので、 逆の立場だったら 、社交辞令でも 絶対にこのようには言わないのですが、
この人はいい人だなと思いました。
気は優しくて力持ちとはまさにこのような人のことを云うのだなと思い、新宿区の駅まで向かいました。

青空の下 荷物カバンが空気のように軽かったです。

自分的にはこの日は印象的な一日になりました。

松田伸一郎 思い出 一番印象的で重たいコイン

自分は完全な子供嫌い、中身のない話をでかい声でするのでうっとうしいのです。( 性欲が無くなった今は知識、中身が子供と変わらないアダルトチルドレンの日本女性も同様です。自分が好きなのは物理学や芸術の話で接点無し、思い出だけでもう沢山、持ち金は全部、音楽、イラスト、海外旅行に使いたいです。 )

デンマークでは近寄って来た子供に空蹴りして罰金を取られ、フランスの電車内ではこれも周りをうろつく子供の親にクレームをし、他の車両に移ってもらうなど、ろくな事がありません。

最高のペットだと言う人もいたのですが、自分はその真逆で、やかましい金食い虫、百害あって一利なし、そんなもん養う養育費があったら、世界をグルグル回って海外に永住したいと思っています。

まー 関わらずに済むのであればホント助かるなと思っているクチですが、一つだけちょとした、いい感じの思い出があります。

イギリスのボーンマスという街の駅前で路上弾き語りをしていた時、3人組の 7から10歳位に見える子供達がやって来ました。なんか、何やってんだこの東洋人は?  みたいな目でこっちを見ています。子供嫌いの私は無視して歌い続けました。

彼らはいなくなり、数人の人が話しかけて来て、1ポンド (当時レートで130から170円位)くれた人もいました。

2時間以上歌っている間、例の子供達はまたやって来て、なんか敵意のあるような目で見ています。日曜日の午後、行くとこないみたいで駅周りをウロウロしているようです。そしてまたいなくなりました。

歌い疲れ、さー切り上げるかとフィニッシュし始めようとした時、またやって来ました。3回目!

とにかく無視していたのですが、なんか口論を始めました。

早口で聞き取れたのが ” Last time I – … ” だけなのですが、とにかくマジ顔でいい争そってました。何がしたいのかよくわからず茫然と見ていたら、、、、

なんとコインを投げてきて、親指を上げてニコッと笑いながら、” Very Nice . ” と言うではありませんか。

コインは最小通貨の1ペニー ( 当時レートで1.3から1.6円位 ) なのですが、子供の小遣いの中では貴重なはずで、それ故に誰が出すのか言い争いしていたのだと思います。

意外な展開で呆気に取られ ” Thank you ” とだけ言い返したのですが、後で なんで彼らにとっては貴重なお金をそのまま貰っちまったんだろう?  と、ちょっと反省しました。

日本で弾き語りした時は数百円くれる人もいたのですが、自分に取ってはこの2円未満の1ペニーが今まで手に取ったコインの中で一番印象深く、ズシリと重いコインだったりします。

松田伸一郎 思い出 一番目の彼女と大学時代、  変わるものと、変わらないもの

” 伸一郎君ってひょうひょうとしてるね、私のこと好きなのか嫌いなのか、良くわからない” 10代後半 当時自分は何より音楽が好きで、ただ多くの人が酒、タバコを好奇心から一度は試してみるように、バンド活動の合間にデートもしたりしてました。

ただあくまで酒、タバコと同じ感覚で適当だったので、たまに温度差を感じたりしてました。なんか自分はベタベタされると引いてしまう、近付いて来ると離れようとする電磁誘導のような性質があり、デートとかは楽しいのですが、生活に関すること、養うとかの話になると、自分はロックンローラー体質なのでメッチャ面倒くさくなって話をいつも反らしていました。

映画によく行きました。

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チョコレートを買い込んで、楕円形の粒を彼女がつまんで口に持ってくるのですが、こういう事をする女性は多いのか、4番目の彼女もチョコレートだの、かき氷だのを ” ハイ ア~ン” と私に食べさせるのが好きでした。

彼女は働いていて、たまに仕事の愚痴を聞かされました。自分はまだ大学生だったので、よくわからん世界だったので、適当に受け流していたのですが….

後年、ブルース-スプリングスティーンという人のジャージーガールという曲を聞いていた時こんな部分がありました。

仕事で疲れて眠り込んでる彼女

これを聴いたときに何故かこの1番目の彼女の事を思い出し、あーもっと親身に愚痴を聞いてあげればよかったなと、何故かしみじみ思いました。

この人は4人の彼女のうち一番印象薄い方なのですが、何故かこの時は、4人共仕事の愚痴は言っていたのに、この彼女のことを思い出しました。なんか人間の感情って不思議なものがあります。

しかし時というものは変わるもので、10代、20代に嗜んだ嗜好品、酒、タバコ、女は今は大嫌いになりました。女の場合は妬み深い、音楽制作の楽しさが分からない、そして想像がつかない、機械、ロボットのような人生を送っている役人達に押し付けられるので嫌になりました。もともと女のために努力するのは嫌で、金使うのもデートならいいけど養うなんて出来ません、そんな金あったら音楽に使いますという性質だったのですが押し付けられるのでマジ嫌になりました。

拒絶反応という概念の無い人生経験の無い、一生同じことを飽きもせず繰り返し続ける向上心の無い、自分のようなモノづくりの楽しさが骨の髄までしみ込んでいる人間とは真逆の役人、Public Servant という物体に囲まれ、自分は好きな音楽できて幸せなのですが、幸せはこの国では不幸せなロボットに邪魔されるのが運命のようです。

自分は独身主義者で独りの方が気楽で自由でいいので、音楽、イラスト、海外旅行に専念できる、今の状態にメッチャ満足しているのですが、4人付き合った思い出はイラストのネタになるので、大学時代遊んでて良かったなと自分的には思います。研究室の中では顰蹙を買ってましたけど ….

好きだったチョコレートも金の無駄なので食べなくなり、酒、タバコ、女は嫌になり、時の流れと共に人生は移りゆきます。

でもロックンロールや音楽制作だけは、プラス イラスト制作は 無尽蔵の金脈の如く私を虜にし続けています。

変わるものと、変わらないもの、人生はテームズ川やセーヌ川やドナウ川やモルダウ川のようにうねって流れてゆきます。

嗚呼 私の人生 !

思い出 第2期青春時代 北米とヨーロッパ旅行 アイルランド編

映画 追憶 の中でベストイヤーは? と聞くシーンがありましたが、自分にとって Best Year は今の所2011年かなと思います。初めてニューヨークを見て、初めてロンドンで路上ライブを行い、ダブリンで作曲、路上ライブ音楽漬けの日々、ユースホステルで色んな国の人と話して世界が広がりました。

ここではダブリンでの日々を書きたいのですが、この街は今は忘れ難い場所となったのですが2011年春、旅行計画を練っていたときはそんなに行きたい所ではありませんでした。ニューヨークやパリ等の方が興味深く思えていたのですが、いざ6月23日ニューヨークに行ってみると、プランは激変。楽しいことも一杯あったのですが、それより夏の旅行シーズンでユースホステルが満杯で2日ほど外で寝なければならず、1日はセントラルパークの南西59th Street の噴水のある所のベンチで地元の hobo の人の横で仮眠、もう1日は34th Street のペンシルベニア station の早朝発の高速バス待ちの乗客に紛れて仮眠、一日ごとに違うホステルに移動しなくてはならず、また一泊5000円ぐらいする所が多かったので、面倒くさくなって3ヶ月の予定を5日に短縮し、グレイハウンドなるバスでカナダのトロントに向かいました。

ここなら weekly rate があって安いし長居できるだろうと思ったのですが、今度は街自体がニューヨークの後だけあってチョットしょぼく見え、6ヶ月滞在のビザ取ったのですが、9日ぐらいでチケット買ってヨーロッパ、オランダ、アムステルダムに飛びました。

ベルギーのブリュッセルで euroline なるバスの周遊券を買い、時計回りにコペンハーゲン、ベルリン、プラハ、ウイーン、ローマと廻って行ったのですが、この頃は旅よりも音楽志向の方が強くラジオもイギリスBBC等に比べるとイマイチで言葉も分からず急に英語を使う生活が懐かしくなり、そうだダブリンに行こうと予定外だった街へ行くことにし、とりあえずマルセイユ、パリと歩を進め、飛行機でダブリンに飛びました。

8月初旬でした。まさかひと月ちょっと前の6月下旬、成田にいた時には秋までの予定のニューヨーク滞在をさっさと切り上げ真夏の8月アイルランドにいようとは思いもよらなかったので、やけに低い高さで拡がっていた真っ白な雲と眩しい青い空を見ながら、俺の人生は予測不能の不規則バウンドするラグビーボールみたいだなと、ふと思ったりしました。

ここは路上ライブが盛んで、またロンドンや東京みたいに警察が来てのかされることもない、演奏好きにはとってもナイスな街でした。私もテンプルバーという繁華街やグラモフォンストリートというショッピング通りでこんな感じで何度か歌いました。

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ダブリンはユースホステルが多く何処に長居しようか色々当たって、いいのが見つかりました。Four Courts Hostel というリーフ川沿いのもので週払いにすれば一泊1600円位で泊まれました。

ここで色々な人と出合い、色んな話をして、多様な世界観を知り、楽しいステイになりました。トータル5ヶ月以上ここに泊まらせてもらいました。

一番思い出深い人は Paddy Kerry という方でノンフィクションライターでした。ダブリンは家賃高いのでユースにいた方が安上がりということで長期滞在しながら執筆活動をされていました。当時はWikipedia でも紹介されていて、なかなかの有名人。第一次世界大戦時の秘話のノンフィクションを私の滞在中に発売されました。

ベトナム戦争にも参加されたということなので、リアルな映画として評判の”プラトーン”で描かれている事は本当か尋ねたら、” 本当の兵隊はあんな喋り方はしない、あれは商業用に馴らしてある。スタンリーキューブリックのフルメタルジャケットが近い。” との答。 善人が沢山出てくるプラトーンと違い、フルメタルの方は殆どの人が利己主義的で言葉遣いも shit , fuck の連発でなんか自分的にはあまり良い感じの映画ではなかったのですが、実際に現地に行った方の声ですから、やはり現実を知って興味深かったです。

アフガニスタンへの外国からの介入は人道的支援ではなく経済的な利益の為ではないのかと聞くと ” Yes, war is big business ” と、私はその時まで戦争というものは金がかかるものだという認識だったのですが、その時初めて、彼の口ぶりから ” えっ、そんなに儲かるの ? ” と驚いた記憶があります。その後ネットで色々調べて戦争経済というものを把握したのですが、世界中の人が平和への運動を行っていても、一方で数千億の利益を戦争を通して得る企業が存在するので、なるほど何処かで必ず戦争が起こされるようになっているのだなと、2011年の旅は世界への認識を新たにするものとなりました。

ギターをヘビィメタルが好きな人と一緒に弾いたり、スペインの人と彼の国の名曲 ” エレス、トゥー” を歌ったり楽しい思い出もあるのですが、大学時代にそこそこ楽しいことはやっているので、自分にとって新しい知識、体験がどうしても印象深くなります。そういう意味で外国の人達との会話は新鮮なものがありました。

アメリカ、テキサスから来た経済を学んでる学生の人は、もし宇宙人がこの地球を見たらなんでこんなに小さな国に世界が分けられてて、しかも争っているのか奇妙に思うだろうと、いいことを言っていたのですが、米国の拳銃所持の合法制度について問うと、” 確かに拳銃は良くない、しかし自衛の観点からいうと相手が武器を持っていたらこちらも持たなければいけないし、う~~ん… ”  と本気で悩み始めました。しまいには頭が痛くなったのか額に手をやり、顔をテーブルに近づけうなだれてしまいました。これを見て、日本はじめ多くの国では銃を持つなどとんでもないというのが常識なのに、アメリカはやはりちょっと感覚が違うなと思いました。

ちなみに後の2014年アメリカ、シカゴに行った時、コンビニの入口にこのようなステッカーが貼ってあり

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” イリノイ州では拳銃の所持が禁じられています ” との説明が … つまりOK な地域がある故のサインなのですが、こういうステッカーがコンビニに貼ってあるのは世界広しといえどアメリカだけのような気がします。

ダブリンで良かったのはトリニティカレッジという大学がグラウンドをオープンにしていて芝生の上で思い切り走り込みやダンスなどが出来たことです。都合6ヶ月の生活中、体力維持にすごく役立ちました。

パート2に続きます。

4番目の彼女とのトラウマ パート1

彼女の誕生日が近づいて来ました。何をプレゼント? 当時作曲を始めて面白さに取り憑かれていたので、これはいい機会だと5曲作ってテープに吹き込んで渡しました。喜んでくれたみたいで手紙が来ました。この娘はやたらハガキ等を出すのが好きで、週に1回は電話しててその時話せばいいのに、やれこういう事が仕事中にあったなどと 、自分の最新ニュースを一刻も早く聞かせたいみたいな感じでイラストを添えた葉書を送ってくるユニークな癖を持ってました。 

この時はスペシャルだったのか、封筒入りの手紙でした。 ” 大きなプレゼントありがとう、今改めて心が一杯です 、今日は私の記念日です ” 云々の他に一言 ” 今の私のたった一つの悩みは 24になったことみたいです。 ” 

これが何か気になりました。曲の歌詞は喜んでもらおうと ” カワイイ ” 、” 好きだ ” 等の言葉をぶちかまし、散りばめたもので、だからこそ嬉しさの上いつものようなむき出しのはがきでは無く封書だったのでしょうが、このネガティヴなラインは ???

3番目の彼女のセリフがうっすら蘇って来ました。”‘ このままズルズル行ったら責任取ってくれるの ? ”  

この手紙にどう答えれば良いのか、見えて来ました。

” もし24でまだ身が固まってないのが悩みなら、俺がいるじゃん ! ” 

こう言わせたいんだろうなという気がしてなりませんでした。 

というのは彼女は以前から、” 私は絶対幸せになるぞ ” 、 ” もし私が男だったら一生懸命勉強していい会社に入って、女の子を幸せにする。” などと言っており、 ” 卒業したらどうするの ? ” と聞かれ ” サラリーマンか残業の少なそうな公務員も考えてる ” と答えたら ” やったー 頼りがいがあるぞ ! ” と叫び、 自分は彼女と会うのは色んな所に遊びに行くためで将来の事など話し始めたことなどないのに、彼女の方はやたら未来の事を話題にして、その度自分は話をそらしていた経緯があるからです。

当時の自分は今から大学新卒として就職、ずーっとサラリーマンをするのか、んなものロックンローラー体質の自分に合うわけがない。このままバイトで生活しながら気の済むまでバンド活動、音楽活動を続けようかどっちにするか決めかねていて結婚して身を固めるなど論外の話しで、こう言えば喜ぶだろうなと思っても現実に愛してたのはロックで、歌うことが何より楽しくてしょうがなかったので、冗談でもそんなことは言えませんでした。

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3番目の彼女の時もそうだったのですが、いざ結婚のイメージが現実化するとエスケイプしたくなるのは相変わらずで、彼女の事は好きだったのですが、結婚する程好きではない、それより自分がやりたかったのは曲を作って人に渡すってことだったんだなと、しばらくして気付きました。彼女が考えているのは現実的な安定した暮らしで、自分のイメージする音楽制作の果てしなき世界、自由に空を飛ぶように生きていくアイデンティティを共有できる訳などありません。

手紙を読んだ後、何とも気だるい複雑な気持ちになりました。曲の中で好きだ、可愛いと言っておきながら、将来の事は無視する勝手な振る舞いは3番目の彼女の時と同じで、前ほど強くはないにせよまたしても自己嫌悪に陥りました。その印象のイラストです

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ただ自分は欲張りで、別れるにしても曲のネタが欲しい、とっても哀しい別れ方をしてそれで曲を作ろうと浅ましい事を考えてて後で手痛いしっぺ返しをくうことになります。

パート2に続きます